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vol.5 立川市史編さん広報紙「たちかわ物語」 | 立川市

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平成30年3月22日、新編立川市史の最初の刊行物となる『新編立川市史調査報告書・近世編1・鈴木家文書目 録』が発行されます。旧柴崎村の名主・鈴木家に遺されてきた約6,300点の資料に関する情報を収録しています。

今号は、そもそも目録とはなにか、なぜ目録は作られるのか、その役割について解説し、部会特集(近世部会) では鈴木家文書目録について内容の一部をご紹介します。

個人宅に古くから伝わる資料を調査することは、地域の歴史を知るための重要な手がかりのひとつとなります。 目録はあまり馴染みがないという方が、目録をより身近に感じるきっかけとなり、また、個々の資料がどのように 市史の編さんに活かされていくのか知る機会となれば幸いです。

*連載*

・立川おっこぼれ話「蕎麦屋から始まったレストランのピザ」....2 ・新しい市史の編さんによせて...2 ・部会短信...3 ・市史のつくりかた

目録ってなんだろう?...4~5

・部会特集(近世部会)

『鈴木家文書目録』刊行にあたって...6~7 ・平成29年10月~平成30年3月活動報告...11 ・資料提供のお願い/受贈図書・資料提供者...11 ・市史編さん関連講演会のご報告...12

鈴木家長屋門 昭和35(1960)年ごろ 歴史民俗資料館所蔵

5

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新しい市史の編さんによせて

 立川市史編さん委員として新たに参加いただいた小坂克信さんに、立川市史に寄せる思いをうかがいました。

水利用の歴史を明らかに

 (小坂 克信 編さん委員)

前回の市史発行以降、立川市は開発や土地利用の変更によって、景観や生活環境が大きく 変化した。新立川市史では、それらに伴う人口の増加や市民が継続的な生活を送るための電 気やガス、水道、道路などのインフラの整備や福祉、環境問題など、近・現代の歴史的経緯 を明らかにしてほしい。

特に、水利用に関しては、武蔵野台地は地下水位が低いことから、玉川上水の分水ができ て、初めて継続的に人々が居住することができるようになった。分水は、現在の市のもとに なった新田や村の飲料水・生活用水に使われたばかりでなく、水田を灌漑し、水車の動力と

しても使われた。しかし、低地の田用水として使われた九ヶ村用水や残堀川なども含め、水利用の歴史はあま り知られていない。

現在では、身近な水道によって必要な水量が不便なく使えるが、先人たちは水を得るためには苦労・工夫し て、水資源を自らの問題としてきた。海外では水道が使えず、水不足で時には紛争に発展する地域もある。水 道敷設以前の水利用の歴史を知ることは、足元の歴史を知ると同時に、今後の水利用を考える上でも大事であ る。さらに、身近な環境の大きな軸の一つである用水や分水を次世代に継承する保全・活用の面からも、水利 用の歴史を明らかにし、その成果を教材として、学校教育でも活用できることを望んでいる。

かつて立川駅南口に一軒の蕎麦屋がありました。昭和6(1931)年に 「奈美喜庵」の暖簾を掲げて開店したその店は、当時まだ飲食店が少な かった南口にあって大繁盛しました。戦後になると、奈美喜庵オーナー の並木氏は、蕎麦屋のほかに結婚式場の調理部門や小料理店など様々な 飲食店を出店していきました。

その一つが柴崎町3丁目にあった「レストランなみき」です。昭和40 (1965)年の東京都農業会館新館の落成に合わせて、建物の地下1階に オープンしました。奈美喜庵は蕎麦屋であったのに対して、こちらのレ ストランでは洋食を提供していました。厨房は広く、店内での料理の提 供のほか、弁当の仕出しも請け負っていました。

右のメニュー表はレストランなみきの計画段階のものです。注目した いのが「ピッツァ」です。6種類のメニューがあり、具材にペパロニ (スパイスの効いたサラミ)やアンチョビなどを使った本格的なもので、

価格もほかの料理より少し高めでした。現在では一般的なメニューと なったピザですが、当時は現在ほどの知名度はなく、立川でも珍しいも のだったようです。ピザをメニューに入れることを提案したのは、当時 厨房を任されていたコック長だったそうですが、どんな料理なのかが知 られていなかったため注文があまり無く、開店後まもなく提供を止め、 幻のメニューとなってしまいました。(藤野)

立川

こぼれ話

蕎麦屋から始まった

レストランのピザ

昭和29(1954)年ごろの奈美喜庵本店

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部会短信

(平成29(2017)年度後期)

近代部会

現代部会

民俗・地誌部会

先史部会

向郷遺跡の竹内氏寄贈資料は 整理を終了し、報告書の刊行に 向けて原稿の執筆や図版の作 成、掲載写真の撮影を進めてい ます。また、縄文土器の一部に ついて蛍光X線を用いた胎土分 析を行うことになりました。こ れにより、材料とされた粘土や 混和材の採取地や土器の製作地 がはっきりすると思います。こ れらの成果をまとめた調査報告 書は、平成31年3月に刊行の予 定です。また、大和田遺跡第1 次・第3次・第4次調査の出土 遺物の整理作業を本格的に開始 し、現在は報告書掲載資料の抽 出と図化を進めています。2月 には、國學院大學文学部考古学 研究室の協力を得て、古墳の可 能性が高い沢稲荷の測量を行い ました。

『資料編・古代・中世編』(平 成31(2019)年度刊行予定)刊 行に向けて、掲載する史料の翻 刻や選定作業を進めています。 史料は中世武士立川氏に関する 文書・系図をはじめ、古代・中 世の立川周辺地域に関するもの を、広く集めているところです。 東洋文庫(東京都文京区)で は、14世紀の経典である「普済 寺版」を調査し、丁数や文字の 確認を行いました。また市内の 旧家を回り、文書の所在を確認 する調査を始めました。調査を 進めていくなかで、蔵から資料 が発見されたため、今後は資料 の蔵出し作業も入っていきます。 さらに、普済寺で六面石幢の写 真実測調査や、昭島市や国立市 の寺院にて石造物の拓本を採る などの調査も行っています。

昨年に引き続き、史料所在調 査と調査報告書の刊行作業を中 心に取り組んでいます。史料所 在調査は、月2件ほどのペース で進めています。一方、市史編 さん事業で最初の調査報告書と なる『鈴木家文書目録』を3月 に刊行します。鈴木家は江戸時 代に柴崎村の名主を勤め、明治 以降も行政に関わるなど、地域 に貢献してきた家です。文書目 録からは、江戸時代から明治以 降近代にわたり立川市域でどの ようなことが起こっていたかな ど、多くの貴重な事実を知るこ とができます。たくさんの方々 に手に取っていただければ幸い です。

『資料編・民俗・地誌編①』 (平成31(2019)年度刊行予定) に向け、柴崎地区(旧立川村) を重点的に調査しています。戸 別の聞き書きに加え、諏訪神社 や普済寺等の行事に際し、観察 調査を実施しました。文書資料 については、八幡会館からまと まった量の史資料を借用し、複 写しました。また、共有膳椀等 の実測・撮影を行いました。砂 川地区においては、特に砂川青 年団役職経験者の方々にお集ま りいただき、団の活動や歴史等、 興味深いお話を伺うことができ ました。今年度は102件の行事・ 戸別調査を実施することができ ました(1月現在)。各戸、町 会、関連組織の方々のご協力 に、厚く御礼申しあげます。 昨年6月に開始した、市役所

書庫収蔵の永年保存文書、歴史 民俗資料館収蔵の立川市役所文 書・砂川村役場文書等の公文書 の調査・撮影作業を継続してい ます。米軍立川基地関係では、 外交史料館・国会図書館・防衛 研究所等で資料収集を行ったほ か、米軍横田基地から、立川基 地の様子がうかがえる写真の画 像データをいただきました。

資料調査と並行して、『資料 編・現代編①』(平成31(2019) 年度刊行予定)の掲載資料の選 定作業を行うかたわら、『地図・ 絵図編』(平成30(2018)年度 刊行予定)のコラム案の検討を 進めています。

昨年10月にデジタル化を終え た旧立川村・旧砂川村の役場文 書を中心に、『資料編・近代編 ②』(平成32(2020)年度刊行 予定)に掲載する史料の選定を 行っています。刊行に向け、掲 載候補史料のテキスト入力作業 も開始しました。都市問題や文 化に関わる記事を中心に、『東 京日日新聞(府下版)』・『中央 新聞』などの調査・複写も進め ています。また、市外の旧家の 方にご協力いただき、府立二中 (現在の立川高校)や砂川村に 関係する史料の調査・複写も進 めました。今後は東京都公文書 館など、市外機関に収められて いる関係史料の調査も進め、資 料編②の編集に備えます。

古代・中世部会

近世部会

鈴木家の諸系図 歴史民俗資料館所蔵板碑の実測調査

砂川青年団役職経験者の方々との座談会 『東京日日新聞(府下版)』

昭和5(1930)年5月1日 立川基地東地区(メインゲートから北を 望む)

(4)

みなさんは目録ってなんだかご存知ですか?どのようにして目録は作られ、活用されているのでしょうか。 今回の「市史のつくりかた」では、鈴木家文書目録の編集方針をもとに、目録の中でも文書目録を中心にご紹介 したいと思います。

今回ご紹介するのは、目録のなかでも歴史資料を取り扱う際に編集される文書目録です。文書目録は、文書一点 ごとの情報と資料の作成者が勤めた役職や職務等の情報をもとに作られています。

目録とは、一般的に言うと、どこに何があるかを示し たり、特定の物事のまとまりを一覧化(リスト化)して 見やすく並べたものを指します。

目録と一口に言ってもその用途や使われる場所はさま ざまです。例えば図書館で借りたい本を探す時、図書目 録を使えば、著者名やキーワードをもとに本の情報とど こに所蔵されているかを一覧で見ることができます。ま た、美術館などでは、展示された作品のタイトルや制 作者、制作年やサイズなどの情報が掲載された作品目録 (カタログ)が展示会ごとに作られます。

資料がどんな内容であるか明記します。 資料1点ごとに固有の番号を付け、資料1点に つき下記の情報をそれぞれ記録していきます。

番号

まず保存されていたまとまりを示す番号を付け、次 に内容のまとまりを示す番号を付けます。原則とし て資料1点につき1つ付けられる固有の番号です。

表題

表題とは、資料の表紙または冒頭に書かれているも のを指します。記載が無い場合、括弧書きで補足 (仮題、補題とも言う)を適宜記録しておきます。

作成・出所

資料作成者の人名や役職、機関などを記録します。

宛所

宛名がある場合、宛先の人名や役職、機関などを記 録します。

年月日

資料の作成日または写した年月日等を記録します。

形態

状、竪、横などの形状や、綴、合冊など製本の状態 を記録します。

点数

数量を記録します。複数の資料をまとめた方が良い と判断したものは1データとして扱うこともありま す。

備考

特記しておくべき特徴や資料の状態(虫食いの程度 など)を記録します。

資料の情報や保存状態をもとに、資料が作成さ れた過程や背景を明らかにします。資料に書か れている職務や役職を根拠に資料がどのような 目的で作られたか分析し、当時の活動を、公の 仕事から個人の文化活動に至るまでさまざまな 視点で探っていきます。

このような情報をもとに目録を構成していくこ とを編成といいます。

編成が完了したら年代順に並べます。編成すること で、資料1点から得られる情報のみでなく、資料が 持つ役割の全体像を明らかにできます。

資料が保存されていた状態と書かれて いる内容をもとに、より関連性の高い 資料同士を結び付け、資料群の特徴を つかんでいきます。

目録とは?

目録の中を見てみよう

市史のつくりかた

目録ってなんだろう?

~文書目録編~

(5)

ここまで目録の内容や作成過程について紹介しました。では、目録をつくること、 そして目録そのものがどのように歴史研究に活用されているか見ていきましょう。 目録完成に至るまでの手順を見てみましょう。

目録作成は、1と2を下準備とすると、3と4の繰り返しが主な作業となります。 内容の精度を上げるため、資料情報に誤字や誤記が無いか、編成は適切か、複数の調 査員が何度もチェックを繰り返します。

目録をつくることで、今まで蔵や物置に眠っていた書類や冊子が、貴重な歴史資料として活用できるようになり ます。古文書や古い地図以外でも、日記や書籍、手紙や写真なども重要な資料となります。みなさんのご自宅に も、古くからある書類や写真はありませんか?心当たりがある方がいらっしゃいましたら、ぜひ市史編さん担当ま でお知らせください。

どのように保存されていたか、ど れくらいの量があるかを調査し、 記録しておきます。

実際に資料を読み進め、内容を解 読しながら情報を記録していきま す。

未整理の資料群を調査し、 目録を作ることで、「どん な資料があるか」を把握で きるようになります。 詳細な調査を行う前の準備 として人物の役職や職務、 地名を調べ、それをもとに 当時の活動や仕事について 情報を整理していきます。

利用者は、目録と解題を読 むことで資料群の全体像を 把握し、研究の基礎情報を 得ることができます。 目録をもとに資料を検索・ 調査したり、関連する別の 資料との比較や検討がしや すくなります。

資料の状態を確認しながら資料1 点につき1枚の封筒に入れます。 ここで最初に番号を付け、もとも と保存されていた状態が崩れない よう、順番に整理していきます。

編成とは、まず資料 を読み進め、その情報 をもとに当時どんな活 動が行われていたか 探っていく作業です。 資料の解読と並行し て、随時どのように編 成するか検討していき ます。

資料群によって数量 や内容の傾向に違いが あるため、編成の方針 は整理する資料群ごと に決定します。また、 資料の関連づけがうま くいかないと調べづら くなってしまうので、 資料ごとの特色をとら え、客観的な視点で方 針を決めなくてはなり ません。

目録づくりは資料の 解読だけでなく、資料 それぞれが持つ関連性 を見つけ出すことも重 要なのです。

目録を刊行する経緯 や調査で得られた成 果、所蔵者の居住する 地域、家の歴史など、 目録を読むにあたって 基礎となる知識をまと めたもの。目録作成の 代表者などが執筆しま す。

目録の編集方針や資 料のおおまかな内容が 分かる導入部分となる ので、目録本文を読む 前にまず解題を読むこ とから始めましょう。 資料情報をもとに、資料が作られた

根拠や資料が成立していった背景を 解明していきます。

目録のつくりかた

目録の活用

おわりに ~資料を活かそう!~

1. 資料の受け入れ

3. 資料情報の記録

調査

目録の刊行

4. 編成

2. 封筒詰め / 番号付与

目録づくりここがたいへん!

解題(かいだい)とは?

(6)

部会

特集

近世部会

『鈴木家文書目録』

刊行にあたって

行に至る経緯

鈴木家文書は、江戸時代柴崎村の名主を代々勤めた旧家に保管されていた文書です。今回目録化して掲載した資 料は、鈴木家先代(第15代)当主の喬氏から立川市歴史民俗資料館へ寄託(昭和30年代寄託・991点)および寄贈 (平成20年6月寄贈・5300点)されたものです。鈴木家は江戸時代だけでなく、明治時代以降も引き続き行政に関 わってきたことから、資料の点数は膨大であり、同館で部分的には整理したものの大部分は手つかずの状態で保管 されていました。そこで立川市史編さん近世部会では、来るべき資料編や通史編の編さん執筆に向けて、未整理分 の目録作成が急務と考え、これを機会に文書目録を刊行する運びとなったのです。

木家の由緒

戦国期、鈴木家の初代当主繁宗は、八王子城主北条氏照の家臣でしたが、天正18(1590)年の豊臣秀吉による小 田原征伐後、浪人となり、柴崎村に土着して里長となり、江戸時代になると名主を勤めることになりました。江戸 時代の柴崎村の名主は年番制であり、鈴木家や中嶋家、加藤家、小川家などが交替で勤めていました。

木家文書の構造

『鈴木家文書目録』は、ほしい資料を検索しやすいように下図のような項目に編成されています。この構造図は 寄贈分の編成です。寄託分については、すでに整理済だったため、当時の編成をそのまま用いています。

「柴崎村村役人」と「築地村兼帯名主」には、江戸時代に名主等を勤めた際に取り扱った文書が、「近代公職」 には、明治期以降、戸長や村会議員などを勤めた際の公的文書が、「鈴木「家」」には、家としての鈴木家の活動が わかる文書が分類されています。

鈴木家文書の構造図(寄贈分)

鈴 木 家

宿

43

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木家の活動

目録作成を通じて明らかになった鈴木家の活動についてご紹介します。鈴木家は、村役人として、また家とし て、普濟寺や諏訪神社などの運用にも関わっていました。なかでも鈴木家の菩提寺である普濟寺との関係は深く、 同寺の領地存続にも尽力しています。たとえば、写真①にある文書は、先に示した「鈴木家文書の構造図」のう ち、「柴崎村村役人」のなかの「寺社」の項目に編成されているものです。それによると、普濟寺領のうちの荒地 を、村中で相談の上、田地として整えることを取り決めた旨が書かれています。

また、「鈴木「家」」のなかの「文化」項目に編成された文書からは、鈴木家が、多摩地域の文化活動にも積極的 に参加していたことがわかります。たとえば、10代当主重信(写真②)は、多摩の俳壇に身を置いており、多くの 句集に句を寄せています。重信が死去すると、文化12(1815)年には彼の追悼句集「不知火集」(写真③)が出版 されました。同集には柴崎村は勿論、多摩地域一帯の俳人が句を寄せており、交流の広さがうかがえます。

料編・通史編にむけて

文書目録ができたことにより、資料編・通史編のための調査を進めやすくなりました。たとえば、江戸時代の村 政について、年貢はどれくらいだったのか、どんな事件があったのかなどを調査したい場合には、必要な資料を目 録から検索することができるのです。

ただし、今回刊行する鈴木家だけで江戸時代の村のありさまを論ずることはできません。今後もより多くの古文 書を集めることが課題といえます。そのためにも市民の皆さまからの資料に関する情報提供を切にお待ちしている 次第です。

『新編立川市史調査報告書 近世編1 鈴木家文書目録』刊行のお知らせ

立川市役所の市政情報コーナーや歴史民俗資料館などで頒布を予定しています。 判型:A4判

頁数:約250頁

予価:1000円(変更になる場合があります) 平成30年4月頒布開始予定

(8)

資料をよむ

 ~立川文書に見る中世の立川氏~

古代・中世部会部会長 

鎌倉佐保

はじめに

立川市の市名は、鎌倉時代の立川郷(立河郷)に由来します。この立川郷を名字の地として本拠に定めた武士が 立川氏です。立川氏の末裔が大切に保管してきた鎌倉時代以来の古文書(立川文書)が残されたおかげで、いま私 たちは鎌倉時代の立川氏について知ることができますが、まだまだわからないこともあります。ここでは立川文書 のいくつかをご紹介しながら、その疑問も示しておきたいと思います。

1,今に伝えられた立川文書

まず、立川文書がどのように今に伝来したかをご紹介しておきましょう。鎌倉時代立川郷を本拠とした立川氏 は、戦国時代には関東一帯を領国とした小田原北条氏に仕え、北条氏が滅亡した後、水戸徳川家に召し抱えられ武 蔵国を離れました。水戸藩に仕えた立川氏は、明和5(1768)年、立川重房の時に追放処分をうけ絶家しました。 水戸立川氏のもとに伝えられていた鎌倉時代の古文書は、立川重房の娘が嫁いだ郷医諏訪氏に伝わり、江戸後期の 文化11(1814)年、水戸藩士で水戸藩や常陸の古文書蒐集や地誌編さんをおこなった小こ み や ま宮山楓ふう軒けんによって記録され ました。小宮山楓軒編の地誌『水す い ふ府志しりょう料』のなかに記録された9点の古文書の写しがそれにあたります。しかし、 その文書の原本は長らく不明のままでした。

立川氏には、水戸藩に仕官した立川氏とは別に、それ以前に常陸太田の佐竹氏の家臣となり、その後も常陸太田 に留まって帰農した一流がありました。小宮山楓軒に写された古文書の原本は、この常陸太田の立川氏に伝えられ ていたことが明らかになりました。その文書は、平成12(2000)年立川章氏より立川市に寄贈され、現在では立川 市歴史民俗資料館に所蔵されています。立川章氏が伝えた古文書は、巻子2巻に仕立てられた14通で、14通のうち 9通は『水府志料』に掲載された文書の原本でした。また『水府史料』に掲載されていない5通は、原本ではなく 写しでしたが、それまで知られていない新発見の鎌倉時代の古文書の写しでした。

さらに翌平成13(2001)年、同じく常陸太田の立川氏の末裔の立川明子氏の家から、鎌倉時代の古文書原本3通 が発見されました。これは立川章氏旧蔵の写し5通のうちの3通の原本であったことが判明しました。これによっ て立川文書は、12通の原本と、2通の文書写し、計14通の存在が判明しました。以上の立川文書の伝来、一通ごと の写真や詳細は、立川市教育委員会『立川文書』(平成29年11月30日初版二刷)に詳しく掲載されていますので、 これをご参照ください。また市史編さんでも改めて立川文書を精査し、資料編に掲載する予定です。

2,系図に見る立川氏

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いことを示しています。立川氏末裔のもとにも系図は伝わっていま すが、だいたい同様です。

3,立川文書に登場する立川氏

それでは、立川文書を見てみましょう。立川文書のなかには、立 河氏や同族の名前が見られます。最も早くには、貞応元(1222)年 12月9日、日奉時安という人物が武蔵国多西郡内の土渕郷等の所領 を嫡男時直に譲与しています。日奉時安は土渕郷を本拠として土渕 を名乗った一流です。この文書は、後に立川氏が土渕郷を買得した ため、立川文書に残されたようです。

次に弘安7(1284)年には、沙弥西信という人物が「たうしよう はう」(道昌房か)という人物に所領を譲与したことが見えます(写 真①)。沙弥西信は、系図では立川経光が出家して西信を名乗った ことが記されていることから、経光に比定されています。また経光

は、宝治元(1247)年、幕府有力御家人三浦氏一族が滅亡した宝治合戦で活躍したとの記載が系図に見られます。 しかし同じころに『吾妻鏡』に登場するのは、立河基泰という人物で、系図では経光の弟の職泰にあたります。当 時の御家人は、一族のなかで鎌倉に仕える者、所領経営をする者というように分業していたことが知られています ので、立川氏も兄経光が立川郷で所領経営にあたり、弟基泰(職泰)が幕府に出仕していたのでしょう。ただし、 経光(西信)が所領を譲与した「たうしようはう」についてはどういう人物であったか不明です。

次に立川氏一族で文書のなかに名前が見えるのが、立河 彦四郎重清という人物とその妻藤原氏です。重清は、正和 4(1315)年土渕郷内の田地を買い取り、幕府からその土地 の領有を認められており、また立河重清の妻藤原氏も文保2 (1318)年から元応2(1320)年頃まで、土渕郷内の田地を 買い取ったり、立河彦太郎重行という人物から立川郷内の田 地や、小河彦五郎宗頼という人物から小河郷内の田地を買い 取ったりして、その領有を幕府に承認されています。また嘉 暦元(1326)年に立河得王丸という人物が、土渕上村の在家 (農民の家とそれに付属する田畠)を猿渡空心から買い取っ ていますが、この得王丸は、重清と妻藤原氏の間の子ではな

いかと推測されます。他の文書に見える重継という人物が、得王丸の元服後の名前ではないかと考えられていま す。14点の立川文書のうち、9通がこの重清・妻藤原氏・得王丸(重継)という夫妻とその子に関わる文書である ことから、この立川文書は、もともとこの重清、妻藤原氏、重継の家系に伝わったのではないかと考えられます。 しかし、系図のなかにはこれらの人物が見られないのです。立河彦四郎重清は、経光の孫に彦四郎と名乗る人物 が見えますが、実名がわかっていません。重清は立川文書のなかで芝崎と名乗ったことが見えており、立川郷の中 心である芝崎をおさえていたと考えられますが、系譜は伝わりませんでした。このことをどう考えるか、系図と文 書、その他史料に見える立川氏一族の全体像をどう捉えるかということが、現段階の疑問であり、今後の課題とな ります。

さて、立河重清の妻藤原氏が立川郷内の田地を買い取った相手の一人に立河彦太郎重行という人物がいました。

写真①弘安7(1284)年正月16日沙弥西信譲状(立川明子氏所 蔵文書)

(10)

この人物は、系図では宗重流に彦太郎を名乗る人物がいたことがわかっていますが実名は伝えられていません。重 行については、鎌倉幕府の正月行事弓始行事の記録『御お ま と に っ き的日記』に、正和5(1316)~嘉暦3(1328)年の間、射 手として行事に参加していたことが見られます。この行事の参加者はほとんどが得とくそう宗被ひ か ん官(北条得宗家の家人)で あったことがわかっています。重清と同時期に、得宗被官となり幕府に出仕していた立川氏を代表する人物が重行 であったということになります。立川氏のなかにも複数の系統があったと考えられます。

4,立河重清・妻藤原氏等の土地集積

立 川 文 書 の な か の 一 通 を 読 ん で み ま し ょ う。 文 保2 (1318)年12月10日、鎌倉幕府から出された関東下知状とい う形式の文書です(写真②)。日付のあとの署名は相模守平 朝臣とあるのが当時の執権北条高時、武蔵守平朝臣が連署金 沢貞顕です。これは、立河彦四郎重清の妻藤原氏が、武蔵国 土渕郷内の田9段(約9,000㎡)と在家2宇を買い取って、 鎌倉幕府に確認と安堵を申請し、幕府が承認したものです。 これによれば、藤原氏は、文保2年の10月20日に土渕五郎貞 重からこの田と在家を永代買得しました。幕府は、藤原氏か らの安堵申請をうけて実否を確かめたところ、11月12日に売 主土渕貞重から「沽こきゃく却の条、異儀なし(売却したことは間違 いありません)」との請うけ文ぶみ(返答書)が出され、また土渕郷 が幕府からの恩給地ではなく私領であり売買可能な土地であ ることが確認されたため、幕府は藤原氏の領掌を認めました。このように買い取った土地の安堵を求め、それを承 認することを買ばいとく得安あ ん ど堵といいます。

このように、立河重清をはじめ、妻藤原氏、子得王丸(重継)等は、土渕郷や立河郷、小河郷などの田地や在家 を買い取って、幕府に申請して買得安堵を受け、その領掌の承認を得ていました。問題は、なぜ重清・妻藤原氏等 は、これらの田地や在家を買い取っていたのかです。買い取る側に理由があったのか、あるいは売り手の側に何ら か理由があったのかはわかりません。これは残された史料を読み解くなかから推測していく以外にありませんが、 注目されるのは、売り手が土渕氏、立川氏、小川氏など、その多くが日奉氏の一族であったことです。当時御家人 たちは、蒙古襲来による警固体制によって大きな負担がのしかかり、銭貨調達の必要に迫られていました。土地の 売却に際して、できるだけ一族以外への土地の流出を防ぐため、一族間での土地売買がなされていたのかもしれま せん。しかし、一族間の売買であっても、売買された土地をめぐって訴訟が起こることもありました。藤原氏が上 記の田・在家とは別に土渕貞重から買った在家1宇について、貞重(法名定喜)から押領しているとの訴えが出さ れ、改めて売買の事実の確認がなされています(嘉暦4(1329)年8月7日関東下知状)。買い取った側(重清・ 藤原氏・得王丸)が、その買得のたびに幕府に買得安堵を求めたのは、買得した側にも土地集積の積極的意図が あったことがうかがえます。

このように、立川文書から立川氏一族や周辺の所領などについてさまざまなことが明らかになってきました。し かし、まだまだわからないことも多く残っています。市史編さんではさらに調査・研究を進め、少しでも疑問を明 らかにしていければと思います。

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資料提供のお願い

平成29年10月~平成30年3月活動報告

月 日  活動内容

10 月 10 日 近代部会・立川市役所文書撮影委託納品 20 日 市民協働作業(立川の史料を読む会)

11 月

9日 先史部会・土器実測図デジタルトレース等委託 17 日 先史部会・種子圧痕レプリカ分析委託

18 日 市民協働作業(立川の史料を読む会)

12 月

3日 第3回・近代部会会議

16 日 第2回・民俗・地誌部会会議

市民協働作業(立川の史料を読む会) 19 日 第2回・近世部会会議

22 日 先史部会・土器胎土分析委託納品 26 日 第2回・現代部会会議

月 日 活動内容

1月 20 日 市民協働作業(立川の史料を読む会)

2月

3~

4日 先史部会・土器展開写真・集合写真撮影 8日 第1回・先史部会会議

17 日 市民協働作業(立川の史料を読む会) 19 ~

20 日 先史部会・古墳測量調査

20 日 古代・中世部会・普済寺六面石幢調査 中 旬 古代・中世部会・石造物調査

3月

11 日 第3回・立川市史編さん関連講演会 17 日 市民協働作業(立川の史料を読む会) 18 日 第3回民俗・地誌部会会議

20 日 第7回・立川市編集委員会議 22 日 近世部会・鈴木家文書目録刊行 23 日 第3回・現代部会会議

27 日 第7回・立川市編さん委員会会議 予 定 第2回・古代・中世部会会議

受贈図書・資料提供者(平成29年1月1日から平成30年1月31日まで)

以下にご芳名を掲載し謝意を表します。(敬称略・五十音順) ※資料借用をさせていただいた方のご芳名は除きます。

【個人】板谷眞、金子宏、加藤克子、加藤正彦、酒井田曻、塩野和男、田口千恵、寺島正芳、富永静枝、 中野隆右、籏野和良、村野安成、三鴨駒雄、吉沢エミ、渡部與四郎

【機関など】(有)えくてびあん、相模原市立博物館市史編さん班、清瀬市企画部市史編さん室、狛江市 企画財政部市史編さん室、羽村市企画総務部市史編さん室、府中市文化スポーツ部ふるさと文化財課 市史編さん担当、米空軍第374空輸航空団広報部、横浜市史資料室

現在市では、江戸時代・明治時代の旧砂川村に関する資料を中心に探しています。資料や情報をお持 ちの方がいらっしゃいましたら、市史編さん担当までお寄せいただければと思います。

[今回特に探している資料]

■立川市内で採取された考古資料(土器や石器など)

■砂川地域の絵図・地図(江戸時代・明治時代の旧砂川村が描かれた絵図など)

■立川駅前の商店街図(戦後の駅前商店街の変遷が描かれた絵図・パンフレットなど)

(12)

市史編さん広報紙

vol.5

平成30(2018)年3月20日発行

発行 立川市産業文化スポーツ部地域文化課市史編さん担当 〒190-8666 東京都立川市泉町1156-9

 TEL (042)506-0021 / FAX(042)525-1601

 E-mail chiikibunka-t@city.tachikawa.lg.jp

 URL http://www.city.tachikawa.lg.jp/chiikibunka/sisi/hensanshitu/shishi_top.html

印刷 ぎょうせいデジタル株式会社

[市史編さん広報紙に関するご意見・ご感想をお待ちしています]

平成29年3月20日(月・祝)、市史編さん事業での第2回目 の講演会「近現代立川の発展と伝統文化」を開催しました。立 川市史編さん編集委員の保坂一房氏(たましん地域文化財団歴 史資料室長・立川市史編さん近代部会長)と、中野泰氏(筑波 大学准教授・立川市史編さん民俗・地誌部会長)を講師とし て、市史編さん事業の成果を踏まえながらお話いただきまし た。

保坂氏には「昭和初期の立川駅改良計画」と題して、昭和初 期の立川駅について航空写真を交えご紹介いただきました。立 川駅をめぐっては、大正~昭和にかけて実現しなかった鉄道計 画があり、特に青梅鉄道による立川―石神井間と拝島―東村山 間の2つの新線の話は大変興味深い内容でした。新線が計画さ れたのは、新たに立川駅に乗り入れてきた他の鉄道会社に対し て危機感を持った青梅鉄道が、これを防止するために行ったと いうことでした。このような各鉄道会社の思惑が揺れ動く中 で、立川駅は現在の姿になったことがわかりました。

中野氏には「柴崎地域の神社祭礼」と題して、柴崎地域の中 心的な神社祭礼について、市民の方々から伺った体験談などを

もとにお話いただきました。柴崎地域には歴史のある神社が多く、諏訪神社で行われている獅子舞などの奉納芸能 は、江戸時代にまでさかのぼるということでした。崖線沿いにも第六天神社・沢の稲荷・滝壺弁天・矢川弁天と いった小さい神社が点在し、今も地域の人たちによって祭礼が営まれているということでした。また、立川市は飛 行場の設置などで人口が増加し、昭和初期に諏訪神社の氏子が8倍近くに激増するなど、大きな変化がみられまし た。人口増加に対応した形で、氏子組織や祭礼の変化を明らかにしていくことが大事であると述べられました。

当日、会場となった女性総合センター5階第3学習室では、67名の参加者が熱心に耳を傾けました。ご来場いた だいたみなさまには、市史編さん事業へのご理解をいただくことができました。

市史編さんHPはこちら からアクセスできます。

第2回関連講演会のご報告

講演会の様子

参照

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平成30年 度秋 季調 査 より 、5地 点で 調査 を 実施 した ( 図 8-2( 227ペー ジ) 参照

一般社団法人 葛西臨海・環境教育フォーラム事務局作成 公益財団法人 日本財団

(平成 17 年1月 17 日東京都自然環境保全審議会答申).

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麻生区 キディ百合丘 ・川崎 宮前区 クロスハート宮前 ・川崎 高津区 キディ二子 ・川崎 中原区 キディ元住吉 ・川崎 幸区

次に、平成27年度より紋別市から受託しております生活困窮者自立支援事業について

3R・適正処理の促進と「持続可能な資源利用」の推進 自然豊かで多様な生きものと 共生できる都市環境の継承 快適な大気環境、良質な土壌と 水循環の確保 環 境 施 策 の 横 断 的 ・ 総

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